こんにちは。
Yokosuka店エリザベスです。
東京湾に人工の島
海堡と呼ばれる要塞があるのはご存知ですか
第一海堡
東京湾海堡は、東京を防御するため、東京湾の中に設けられた砲台設置のための人工島です。明治政府は、帝都『東京』を護るため、東京湾海防計画をたてました。
その基本的な考え方は、第一防御線(横須賀・観音崎~猿島~千葉・富津岬)、第二防御線(品川付近)を護るために海岸や島(人工島)に砲台を築くというものです。
江戸幕府がペリー来航後、外国船の脅威に対し、江戸の守りとして品川台場を築いたのも、同じ考え方によるものです。
第二海堡
明治13年(1880年)陸軍省は観音崎第一砲台と観音崎第二砲台の建設に着手しました。
これは明治に入ってから最初の砲台建設で、東京湾口部には横須賀軍港を護るために、24の砲台が造られました。
これらの砲台群は東京湾要塞と呼ばれています。
第一海堡、第二海堡、第三海堡は、東京湾要塞の中でも、観音崎~富津岬~猿島の防御線をより強固なものにし、敵艦の侵入を阻止するために東京湾内に造られた砲台です。
第三海堡
第三海堡は、第二海堡より南に約2,600m、水深が39mもあって潮流も激しく、大変な難工事でした。実は当時、世界的に見ても水深40m近い人工島の工事はありませんでした。
第三海堡の工事は、常に波浪との闘いでした。簡単に言えば、海中に堤防を築いて堤防の中を砂で固めるというものです。しかし、苦労して築いた堤防も、明治32年(1899年)、35年(1902年)と次々高波によって破壊され、44年(1911年)には5名の行方不明者を出す惨事となりました。第三海堡は明治45年(1912年)竣工の予定でしたが、結局竣工したのは大正10年(1920年)でした。
想定復元図(平成13年3月現在)
ところが、大正12年(1923年)9月の関東大震災で大破、4.8mも沈下し、施設の3分の1が水没してその機能を失ったのでした。その後第三海堡が修復されなかったのは、砲台の技術が進歩し、第三海堡の位置には砲台が必要がなくなったからです。
しかし、この先駆的な工事は、その後海洋土木工事にさまざまな教訓を残しました。また世界的にも注目を集め、首都ワシントンの前面に位置するチェアピーク湾での海堡建設計画が持ち上がっていた米国では、陸軍が第三海堡に関する情報の提供を日本に求め、その回答が今も米国の国立公文書館に保存されています。
なお、第三海堡の基礎工事には走水、真鶴、鋸山など多くの石材が使われていますが、追浜の鷹取石も使われていたことは、追浜との関係を示すものです。
震災写真他から判読できる事項
関東大震災(1923.9.1 )直後の第三海堡
現代では航路障害となっていたことから、船舶航行の安全を確保するために、平成12年度から平成19年度にかけて撤去工事を実施しました。
■第三海堡撤去
第三海堡の撤去工事は、平成19年8月をもって完了しました。
浦賀水道航路に存在する第三海堡は、航行船舶の難所となっていました。第三海堡の撤去では水深-23mまでの土砂やコンクリート塊を撤去しました。
工事にあたっては、コンクリート塊は起重機船で台船に積み込み、漁場環境改善として魚礁などに有効活用を図りました。100t以上の大型コンクリート塊は潜水作業で吊り金具を装着し、起重機船で吊り上げました。
撤去構造物の内、大型兵舎と呼ばれる構造物は
“うみかぜ公園”(横須賀市平成町)に移設され、
深照灯、砲台砲側庫、地下通路、観測所と呼ばれる4つの構造物が、追浜展示施設に保存・展示されましたが深照灯、砲台砲側庫、観測所は展示施設の維持が難しくなり、
夏島都市緑地に再度移築されました。
夏島都市緑地周辺は貝山緑地・貝山地下壕・夏島貝塚・明治憲法起草の地の碑などの歴史遺産が集約する場所です。
新たな時代を、駆けぬける。
お車のご用命は
Tomei-Yokohama BMW 横須賀店
林 寺田 渡辺 まで
皆様のご来店心よりお待ち申し上げております
046-825-0031
Yokosuka店 でした
Yokosuka店エリザベスです。
東京湾に人工の島
海堡と呼ばれる要塞があるのはご存知ですか
第一海堡
東京湾海堡は、東京を防御するため、東京湾の中に設けられた砲台設置のための人工島です。明治政府は、帝都『東京』を護るため、東京湾海防計画をたてました。
その基本的な考え方は、第一防御線(横須賀・観音崎~猿島~千葉・富津岬)、第二防御線(品川付近)を護るために海岸や島(人工島)に砲台を築くというものです。
江戸幕府がペリー来航後、外国船の脅威に対し、江戸の守りとして品川台場を築いたのも、同じ考え方によるものです。
第二海堡
明治13年(1880年)陸軍省は観音崎第一砲台と観音崎第二砲台の建設に着手しました。
これは明治に入ってから最初の砲台建設で、東京湾口部には横須賀軍港を護るために、24の砲台が造られました。
これらの砲台群は東京湾要塞と呼ばれています。
第一海堡、第二海堡、第三海堡は、東京湾要塞の中でも、観音崎~富津岬~猿島の防御線をより強固なものにし、敵艦の侵入を阻止するために東京湾内に造られた砲台です。
第三海堡
第三海堡は、第二海堡より南に約2,600m、水深が39mもあって潮流も激しく、大変な難工事でした。実は当時、世界的に見ても水深40m近い人工島の工事はありませんでした。
第三海堡の工事は、常に波浪との闘いでした。簡単に言えば、海中に堤防を築いて堤防の中を砂で固めるというものです。しかし、苦労して築いた堤防も、明治32年(1899年)、35年(1902年)と次々高波によって破壊され、44年(1911年)には5名の行方不明者を出す惨事となりました。第三海堡は明治45年(1912年)竣工の予定でしたが、結局竣工したのは大正10年(1920年)でした。
想定復元図(平成13年3月現在)
ところが、大正12年(1923年)9月の関東大震災で大破、4.8mも沈下し、施設の3分の1が水没してその機能を失ったのでした。その後第三海堡が修復されなかったのは、砲台の技術が進歩し、第三海堡の位置には砲台が必要がなくなったからです。
しかし、この先駆的な工事は、その後海洋土木工事にさまざまな教訓を残しました。また世界的にも注目を集め、首都ワシントンの前面に位置するチェアピーク湾での海堡建設計画が持ち上がっていた米国では、陸軍が第三海堡に関する情報の提供を日本に求め、その回答が今も米国の国立公文書館に保存されています。
なお、第三海堡の基礎工事には走水、真鶴、鋸山など多くの石材が使われていますが、追浜の鷹取石も使われていたことは、追浜との関係を示すものです。
震災写真他から判読できる事項
関東大震災(1923.9.1 )直後の第三海堡
現代では航路障害となっていたことから、船舶航行の安全を確保するために、平成12年度から平成19年度にかけて撤去工事を実施しました。
■第三海堡撤去
第三海堡の撤去工事は、平成19年8月をもって完了しました。
浦賀水道航路に存在する第三海堡は、航行船舶の難所となっていました。第三海堡の撤去では水深-23mまでの土砂やコンクリート塊を撤去しました。
工事にあたっては、コンクリート塊は起重機船で台船に積み込み、漁場環境改善として魚礁などに有効活用を図りました。100t以上の大型コンクリート塊は潜水作業で吊り金具を装着し、起重機船で吊り上げました。
撤去構造物の内、大型兵舎と呼ばれる構造物は
“うみかぜ公園”(横須賀市平成町)に移設され、
深照灯、砲台砲側庫、地下通路、観測所と呼ばれる4つの構造物が、追浜展示施設に保存・展示されましたが深照灯、砲台砲側庫、観測所は展示施設の維持が難しくなり、
夏島都市緑地に再度移築されました。
夏島都市緑地周辺は貝山緑地・貝山地下壕・夏島貝塚・明治憲法起草の地の碑などの歴史遺産が集約する場所です。
新たな時代を、駆けぬける。
お車のご用命は
Tomei-Yokohama BMW 横須賀店
林 寺田 渡辺 まで
皆様のご来店心よりお待ち申し上げております
046-825-0031
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